Neo Culture #Journal

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ある文化がある異文化を受容するには、母体となる文化においての既成概念の破壊と伝統の再構築が必要となる。 Neo Cultureは、その過程を人為的かつ局所的に再現しようとする、一種の実験である。

ビリヤニ回顧録①-ムガル帝国とその料理

ムガル帝国とは?>

ムガル帝国16世紀初頭から19世紀後半まで存在したイスラム王朝

 

<ムガル料理とは?>

ムガル料理とはその王朝の中で発展した料理と、ムガル帝国滅亡以降にそれらを基にさらに発展を遂げた料理と解釈できる。しかしながら、この時点で一つの疑問が浮かんでくる。

 

 

<そもそものムガル料理のルーツは?>

ムガル帝国を建国したのはアフガニスタンからやって来たバーブルさんだった。バーブルさんはある戦で勝った後にデリーでムガル帝国を興し、そして帝国はその後200年ちょっとの間に、最大で今のインドの南端を除くほぼ全体と言っていいくらいの土地だけでなく、パキスタンバングラデシュアフガニスタンの一部まで巻き込んでを領土とした。ではこの300年ちょっとの間のムガル帝国で発展した料理がムガル料理というのはいいとして、ムガル料理は17世紀に全く何もないゼロからオリジナル料理を作っていったのだろうか。

 

 

<そんなわけない>

そう、そんなわけない。Indo-Persian料理という概念がある。ざっくり説明すると、名前の通り今のペルシャからインド亜大陸にかけての料理群の総称である。ムガル帝国の初期から(それ以前の王朝でもあっただろうが)Indo-Persian料理のレシピ集とも呼べる本が纏められている。ムガル帝国の歴史の中で纏められたIndo-Persian料理のレシピ集はそれなりの数に上ったようだが、現存するものは少ないようである。ただ利用できる記録からするとどうやら、領土の各地方からの様々な料理が記録され、纏められていたようだ。その時々の支配階級の人たちの口に合うものがその中から選ばれ、調理されて出されていたのだと思われる。

 

 

<そのレシピ集には何が書かれていたのか>

ムガル帝国で最初のIndo-Perisianレシピ集の中には、今でいうところのサモサ、キチュリ、プラオ、シーク(串焼き)、ヤクニ、カバブ等インド・パキスタン料理好きの人たちなら誰もが知っているような料理が既に名を連ねていたようである。それに加えてバングラ、オリッサ、ケララで今でも食べられている炊いた米を水に浸けておいて次の日に食べるパンタ・バート(これはベンガル語)のような料理や、今のインドのパンジャブやヒマーチャルプラーデシュで食べられているベサンとヨーグルトで作るカディのような料理も記述もある。ローカルな料理の形というのはもしかしたらこの時代からそんなに変わっていなかったりするのかもしれない。またこの本を含め、歴代のIndo-Persian各材料の正確な分量まで記録されているものも多かったようだ。一説によると北インドでプラオが広まったのもこの時期からの様で、鍋ひとつで作れるために戦場や遠征先などでは都合が良いという背景があったようだ。

 

<アクバル登場>

アクバルさんはムガル帝国三代目の君主だ。時代にはペルシャ人、トルコ人、インド人イスラム教徒、インド人ヒンドゥー教徒と様々な人が支配層として政治に参加したようなので、おそらくこの時代から本格的に各地域の料理を横断的にまとめたレシピ集も編纂が加速したと思われる。そしてそれによって支配層の人たちは南アジア各地のご当地グルメの情報に晒されまくることになり、exoticな味わいを求めることに憑りつかれてしまったようだ。

 

 

<ということは>

インド各地にはムガル帝国の置き土産の様な料理がある。しかし実のところそのルーツを辿れば、元は他の地域の郷土料理であったり、もしくはその土地にもともとあった料理が当時のムガル帝国の支配層の人たちのお眼鏡に敵い、宮廷料理のバリエーションに取り入れられグレードアップされたものが地元に凱旋帰国を果たしたものだったりする可能性がある。つまりムガル→ローカルではなく、ローカル→ムガル→ローカルの流れである。だってそうだ、別にムガル帝国はゼロから全てのムガル帝国キュイジーヌを創り出したわけではないのだから(※オリジナル料理もある)、現在のムガル料理でもそのルーツを南アジアのどこかに求めることができるものがいくつあっても不思議ではないだろう。

 

<ちなみに>

トマトやじゃがいも、唐辛子など今やインド料理と聞いて連想せずにいられないような食材の数々が、ヨーロッパからインドにもたらされたのは16世紀ということなので、ムガル帝国の支配階級は南アジア各地から収集したエキゾチックなグルメに、さらにエキゾチックな食材を使って様々なアレンジを施していったのだろう。乳製品やナッツ、ドライフルーツの類は最初から全てムガル帝国にはあったので、今の北インドレストラン料理に必要なものがこの時代にすべて揃ったということになる。

 

<シャー・ジャハーンの時代>

タージ・マハルを建造したことでも知られるこの人は、料理本も編纂している。正確にはご本人が直々に編纂したわけではないと思うのだが、彼の時代の支配層の食事のレパートリーが記録された本がある、という体裁のものではあるそうだ。しかし如何せん編纂に関わったシェフや知識人に対する言及が一切ない、ということでどれがどこまで実用的な料理であったのかは正確には分からないようである。この本にはナン、バルタ、プラオ、ハリーム、テヘリ、プーリに加えて、ジャム、ピックル、ハルワ等のスイーツが正確な材料の分量とともにレシピとして記録されている他、ヨーグルトやパニールの作り方も載っている。またzerbiryanという名前で今のビリヤニに当たる料理も載っていて、この本が初出かどうかは定かではないが、ビリヤニに当たる料理の記述がみられるのはこの頃からのようだ。zerbiryanの中にはオスマン風というスタイルも記録として残っているようで、これは今でもトルコに野菜を使ったダムビリヤニの様な炊き込みご飯があったりする。私も見たことがある程度だが、トルコではビリヤニの様に特別な名前は与えられておらず、特に人気があるような料理ではなく、一つの地方料理程度の位置づけである。

 

<料理の多様性>

インド料理に限っても、今でも同じ名前で全く異なるレシピを持つ料理は沢山ある。それは当時の料理でも同じだったようで、今でいうカリーア、ドピアザ等はペルシャ流とインド流で別物と呼んでいいほどにレシピが違っていたらしい。ただ、カリーア、ドピアザペルシャ料理がルーツなようで、様々な要因でお互いの食文化が交換され、各地域でアレンジが施されたものが、後にそれぞれムガル帝国に収集され、「ペルシャとインドで作り方が違う!」みたいに当時の支配層が興奮していたのかと想像すると、ちょっと笑えてくる。ちなみに玉ねぎはヒンディー語でピヤズだが、ルーツはペルシャ語である。

 

<欧州料理の渡来>

ヨーロッパからヨーロッパの料理のレシピがインドで纏められたのは1800年頃のようだ。ただトマト等ヨーロッパからインドに渡ったのはもっと前なので、料理や文化そのものはトマト等と一緒に徐々に入り込んで取り入れられていたとしても不思議ではない、というかむしろ実際はそうだろう。ただ、正確なレシピ集としてはとにかく1800年頃に英語から訳されたものが完成したようだ。これにはトマトスープ、野菜スープ、マッシュポテト、ステーキ、ラムチョップ、マカロニ、タルト、ケーキなどが載っていたようだ。今までは断片的な情報しかなかったかもしれないものが、ここに来て一冊にまとまり、南アジアのグルメをもはや味わい尽くしていかもしれない当時のムガル帝国の支配層の人たちは、きっと面白がって欧風アレンジを歓迎しただろう。例えば、現在のインド料理レストランで見られるスープがあるが、これはイギリス統治時代の名残であるとされている。しかしそのスープ文化を受け入れる下地はこの頃に出来上がった可能性がある。バターチキンも大量のギーでカシューナッツペーストやマイダを炒めて作るれスタイルがあり、これはヨーロッパのルーの着想を得ている可能性がある。また、インドの家庭料理でもたまにとてもたくさんのトマトを使った野菜煮込みがあったりするが、これももしかしたらこの時代に誕生した料理のひとつだったりするのかもしれない。

 

<まとめ>

現在インド料理の世界で語られるムガル料理のルーツは、基をIndo-Persian料理という南アジア各国各地域のグルメの寄せ集めに求めることができるようだ。そしてそれをベースに、自分たちで調達できる乳製品やナッツ、ドライフルーツに、トマトや唐辛子と言った外来の食材を組み合わせて宮廷の中で独自の進化をさせてきた。現在のムガル料理は、ムガル帝国滅亡後におそらく散り散りになったであろう当時の宮廷の料理人や知識人たちがまたそれぞれ後世に伝えていった結果、さらに多様化したものと言えるかもしれない。